観客と狂言

Blog in Japanese

若いころ、音楽や劇などの舞台芸術の観劇は、音楽はクラシック音楽、ミュージカル、ロックやポップス、舞台は現代劇や狂言など、幅広くコンサートに行ってきたが、この十年は心情の変化によってクラシック音楽と狂言の2つに絞っている(懐事情も大きい要因だけど)。

狂言の観客は、クラシック音楽の観客と比べ、抜群に洗練されている。マナーは守るし、携帯もならさない。休憩中にスタッフや知らない観客に唐突に一方的に語り掛けて、ウンチクを語るオッサンもいない。当然、何かの問題で怒り出す観客もいない(残念ながら、自分が足を運ぶ某在京オーケストラの定期演奏会の大部分は、何かのトラブルで怒りだす古参客、演奏中に静寂な時に限って飴のセロファンをほどきスマホを鳴す観客、タダで来ているのに傍若無人な振る舞いをするスポンサー席の招かざる客、を見かける。なんだか、もう嫌になってきて、他の在京オケにスイッチしようかなと時折考えている)

狂言というのは、なかなか取っつきにくいし、初めて狂言会を見に行っても、狂言独特の演劇慣習もあって、なんのこっちゃ分からない人も多いだろう。狂言会を定期的に行くようになるには、狂言自体はもちろんのこと、狂言を舞台とする時代背景や歴史などの知識や教養も必要になる(知識がなくても楽しめるが、やはり、知識があったほうが格段に楽しめる)。

その結果、狂言の観客は、自分自身はどうか分からないが、洗練された観客が大多数を占める。そのため、舞台上の演技だけに集中できる素晴らしい環境に浸ることができる。

狂言が演じられる能舞台は正面奥に松の絵が描かれているだけで、歌舞伎のような派手派手しい舞台装置、飾り物はない。小道具もできるだけ最小限にとどめている。よって、鑑賞者がいかに想像力を膨らせることができるかが重要なる。狂言師が舞台で「何かと言ううちに都(みやこ)じゃ」と言えば、鑑賞者は背景に松の絵しかない能舞台を、中世期の京都の風景を想像する必要がある。つまり、狂言は狂言師と観客、双方の能動的な共同作業によって成立する舞台と言っても過言ではないだろう(プロ狂言師に対し生意気な言い方かもしれないが)。

狂言師と観客が一体となって醸し出される平穏な雰囲気が、僕は好きだ。